ゆかりの地 巣鴨を歩く

この記事は以前ブログに掲載したものをまとめたものです(2017年5月記)


ゆかりの地 京都を歩く」に続いて、「巣鴨を歩く」です。

信時潔は留学から帰ってから国分寺に住み着く前、大正末年を、当時の表示で「豊島区巣鴨」というところに住んでいました。この住所を長年本籍地としてきた私の父(潔の三男)は、「としまく すがも ラのドファシラ」と覚えていました。(わかりますね?! ドレミファソラシ=1234567です)

巣鴨平松6丁目という表示になっていることもあり、今は表示が変わっていて、豊島区南大塚一丁目という一帯です。
古い地図『明治・大正・昭和東京1万分1地形図集成』
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001654494/jpnなどで、住所を探し、今の地図、およびグーグルストリートビューなどで予習してから出かけました。最寄り駅、大塚駅から歩き始めました。都電が走ってます。大正時代にも複数の電車、もちろん山手線も通り、結構便利なところでした。上野の山にも近いです。
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途中にあった巣鴨教会。このあたりに、山田耕筰「からたちの花」の歌碑があると聞いていたので近隣数ブロックを歩いて探してみたのですが、なかなか見つからず。教会の隣の八百屋さんに聞いてみたら、すぐに「そこ!」と教えてくれたのはなんと教会の敷地内。通りから直接見えないのですが、左の教会写真の木の下にありました。
「からたちの花」発祥の地。ここは耕筰が若き日をすごした「自営館」跡地なのでした。山田耕筰の自伝『若き日の狂詩曲』には、当時のこのあたりの様子も書かれています。

巣鴨小学校を廻ってその裏手にあるのが東福寺。正確なところは未確認ですが、「ラのドファシラ」の借家は東福寺の持ち家だった、と父に聞いた覚えがあります。 豊島区教育委員会が設置した説明板によれば、東福寺は真言宗豊山派に属し、創建ははっきりしないものの1562年に良賢和尚が中興したと伝えられるそうです。小石川大塚から、この地に移ったのは1691年。明治37年の庚申塔があるとのことですが、ほとんど文字が読めない写真石段左側の大き目の碑がそれでしょうか。疫病の牛の供養塔というのは右側の上にあるもの。明治43年の碑なので、その頃このあたりで乳牛を飼っていたということになります。

 

さて、目的地に近づいてきました。私が確認した古い地図には、番地が飛び飛びに振ってあるので、そのものズバリは出ていないのですが、東福寺のすぐ近くであることは間違いありません。入り組んだ細い道、坂、階段。付近を歩いてみましたが、はっきりした痕跡は見つけられませんでした。たぶん、このあたりだと思うのですが。
この区画、今の住所表示は豊島区南大塚ですが、細い道のすぐ向かいは文京区千石3丁目だったりします。昔の東福寺(豊島区)の敷地が切れると文京区、ということかもしれません。信時潔は関東大震災の時、信時の母と共にこの「巣鴨」の家に住んでいたのですが、実父吉岡弘毅夫妻も、当時すぐ近くの「小石川区丸山町」に住んでいたといいます。千石三丁目のあたりが丸山町だとすると、確かに本当に近かった。

やはり、80年以上を経た今、当時の家の面影を探すのは無理でした。このあたり震災では焼けてないそうですが、東京の空襲の時はどうだったのでしょうか。とにかく今はとても綺麗なお宅ばかりです。今回の町歩きで一番うれしかったのは「ラのドファラ」ではないものの「ラのドファラ」を見つけたこと。古い住所表示の入った表札が残っているお宅がありました。この近辺をぐるぐると歩いたのですが、巣鴨6丁目の表示が残っていたお宅は2軒だけ。失礼して、お名前を消して住所の部分だけ掲載させていただいてます。この日歩いた記念になりました。ありがとうございます。