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井上和雄/信時潔の歌曲
2006年10月15日 「神戸波の会 日本歌曲の波を追う その5 信時潔の歌曲」 プログラム より 

【神戸波の会】 日本歌曲の波を追うーその5
信時潔の歌曲
井上和雄

 「神戸波の会」の日本歌曲の波を追うシリーズは、山田耕筰に続いて今回は信時潔を取り上げる事になりました。信時潔(1 887?1965)は、山田耕筰(1886?1965)より一歳年下ですが、亡くなったのは同年(昭和40年)で、同じ時代を生きてき た人といっていいでしょう。しかし二人は全く対照的な音楽人生を歩みました。山田が飽くまで在野の音楽家として、東京芸大の 招聘を拒み続け、そのきらびやかな才能でもてはやされたのに対して、信時は東京芸大の教授として寡黙に作曲を続けました。現在では、山田の歌曲が今も多くの演奏会で歌われ続けているのに対して、信時の歌曲は、まれにしか取り上げられま せん。
  しかし信時の音楽は、本当は山田と並ぶものではなかったのか。そういう思いのもとに神戸波の会は、今回、すべて信時の作 品で演奏会を構成しました。
 ところで信時の音楽は一般には、日本的な情感を素朴、実直に歌っているという印象をもたれています。しかしながら彼の生 い立ちを調べてみると、彼の父は牧師で、小さいときから賛美歌に親しんでいた事が分かります。山田が築地の居留地の牧師 の家に間借りしていたのと同じように、明治20年生まれとしては稀に見るほど西洋音楽に親しんで育ったのです。また山田より かなり遅くなりますが、ベルリンで二年余り音楽の勉強もします。だから彼のクラシック音楽の受容そのものは、山田とあまり変 わりません。実際かれの名曲中の名曲と呼んでいい『海ゆかば』は完全な七音音階で作られています。
 あるいはピアノ小品集『木の葉集』などは彼が当時の西洋音楽を驚くほど自分のものとして吸収していたことを示しています。 一六曲に及ぶこの小品集には、当時の童謡と変わらぬ旋律が出てきたりしますが、新しい和声展開もあり、それぞれによく工夫 されている。いま聞いてもなかなか洒落たものが随所に感じられて、例えばシューマンがよく作った小品集を思い起こさせるほど です。信時がこの方向でどんどん作品を書いていてくれたら、日本のその後の音楽の展開も変わっていったのではないかと思う ほどです。実際これを聞いていると、ここまでの感性を持っているなら、どうして音楽家としてここから新しい音の展開に夢中にな らなかったのかと、不思議な思いにとらわれます。
 しかし彼はそう言う方向に進まなかった。とすれば、それをよしとしないものが彼の中にあったとしか思えません。というより彼 の生涯を見てゆくと、彼が音楽家である前に一人のいわば思想家として、見識をもって音楽に向かっていた事が分かってきま す。彼は日本の近代化に直面した鴎外や漱石のように、明治人として彼なりに西欧と対決して日本人のアイデンティティを保持 しようとした。すでにシェーンベルグやヒンデミットが活躍し始めたクラシック音楽の世界で、日本人として納得できる旋律に何処 までも拘ったのです。別の言い方をすれば、芸術家として当たり前の行為である感性に没入する前に、彼は一人の人間として時 代を洞察し、思想家として自らの感性の方向を制約したともいえます。それは弟子に対しても同じで、若き大中恩がドビュッシー 風のものや彼らしい甘い歌を持ってゆくと、信時は「末梢的で風雪に耐えないものと断じて、仮借なく切り捨てた」と言われていま す(阪田寛夫『海道東征』)。
 そしてそういう姿勢が最もよく現れているのが彼の歌曲です。彼は日本語が語りかける言葉そのものとその内容を、そのイント ネーションと共に最大限生かそうとしました。そして日本人なら誰もが近づけ、納得できる音形を生み出そうとしました。今日演奏 される『沙羅』や『小倉百人一首』それに『鶯の卵』など、どれも日本語が最大限活かされ、しかもちゃんと聞き取れるよう作られ ています。そして曲想も分かりやすいし、その構成もよく考え抜かれています。その意味で、彼の歌曲はその後の日本歌曲の一 つの柱を打ち立てたといっていいのです。今日の曲も一つ一つじっくり聞けば、その事が分かります。
 しかしその事は逆に言うと、音楽そのものが先にあって、音そのものの展開の喜びが人の感性を捉えるという風ではなくて、音 楽が日本語に従属して付いてゆくという感が否めません。彼の歌曲が今でも日本人の心に直接響くものを持ちながら、音楽とし てはいずれも何がしか似たような印象を与えてしまうのは、日本語に付いてゆく限り、日本語のもつイントネーションやリズム感 に音楽が逆に制約されるからではないでしょうか。音楽そのものとしては、欧米の作曲家のように日本語のリズムを突き破るも のが生まれにくい。それが信時の良さであるとともに限界をなしているとも言えるのですが、それは信時の思想家としての見識 から生まれたものと見るべきでしょう。

井上和雄先生の許可と御協力を得て、
ここに掲載させていただきました。
 ありがとうございました。
信時裕子