シェーンベルク、諸井三郎・誠父子と信時潔
信時潔が十二音技法について、研究をしていたことは、信時家に保管されていた雑誌『音楽研究』や「美山氏」と書かれた楽譜帳などで知っていたが、それについて書いた論考を最初に目にしたのは、後藤暢子著「日本における表現主義の受容」(『表現主義音楽再考』東京ドイツ文化センタ− 1984.4 p.88-92)であった。この資料は、1984年4月、ドイツ文化センターで開催されたコンサートのプログラム冊子を兼ねて編集された。この企画の講師・演奏者紹介ページには、監修者の船山隆のほか、柴田南雄、諸井誠、武田明倫、佐野光司と言った名前が並ぶ。
後藤は、「私はごく最近故人の蔵書を調査し、シェーンベルクのop.5~op.8、op.10~op.18、op.22、op.27、op.28、op.30、op.46の作品の楽譜(これらの大部分はユニヴァーサル版)を見い出すことができた。これらはシェーンベルクが12音技法をとるようになる前の作品で信時が帰国するまでに出版さたものを全部含んている。またシェーンベルク≪和声学Hamonielehre》(第3版 1922)や 彼の弟子たちが編輯したくアルノルト シェーンベルクArnold Schönberg〉(1912)等、古い貴重な文献があり、そのうちの何冊かには信時か精読したらしい書き込みがある また五線紙を綴じて表紙を付け、『美山氏和声学抄』と墨書した2冊の楽譜帳も残っている。」と書いている。まだ、これらの資料が信時潔の旧宅に保管されていた頃の調査、論述である。(現在、これらの資料は、東京藝術大学附属図書館の「信時潔文庫」に収められている。)後藤は「ともあれ信時のシェーンベルク・コンクションは、まもなく彼の門下生や諸井三郎・ 誠氏父子によって活用されることになる。」とし、諸井三郎が信時家を訪ね「「君はシェーンベルクを知っていますか」と言って、シェーンベルクの楽譜をたくさん出して見せて下さった。その内の十種類位を渡され、よく研究してごらんなさい、といわれた。」と書いていた(諸井三郎「シェーンベルクと私」『音楽芸術』1974年8月号 p.44)ことを紹介している。
前述の通り、この文を載せた『表現主義音楽再考』のコンサートでは、諸井三郎の子息・諸井誠の作品演奏もあり、寄稿もしている。これを読んだ当時、後藤が諸井「父子によって活用」と書いたのは、父から子へと伝えられた、あるいは自宅(=諸井家)で、同じ資料を目にした、という意味だろうと、私は勝手に思い込んでいた。しかし、実は、諸井誠は父とは別の機会に、信時の蔵書を手に取っていたことを、最近改めて認識した。
中島健蔵著『証言・現代音楽の歩み』((講談社 1978)には、諸井三郎と信時潔のシェーンベルクの譜についての証言を『諸井三郎とその門下の音楽』(1971年 キングレコード)解説書から引用しているほか、「諸井誠からの手紙によると」「信時先生には上野の頃、卒業制作の審査の直後お声をかけていただき、国立あたりの郊外にあったお宅に伺って、ぼう大な量の(シェーンベルクの)楽譜を大きな木綿のふろしきにつつんでいただき、持ち帰って勉強したのでした。」としている。
父・諸井三郎がシェーンベルクの楽譜を借りたのは「東大の美学科に学んでいた」頃とある。「国分寺を訪ねた」とあるので、信時が国分寺に住み始めた1924年12月以降である。信時は『スルヤ』第一輯(1927.12)に「諸井三郎氏を推薦す」を寄せていることからも、交流があったことがわかる。諸井三郎の卒業の1928年までのことだろう。一方、子・諸井誠は、卒業制作の審査をうけたとあることから、卒業年の1952年頃、ということになる。
「石橋を叩いて渡らない」信時潔は、シェーンベルクの音楽から得たもの、その技法を直接自作品に取り入れることはなかったが、信時が集めた資料、それを自ら研究した結果から生じた会話などは、後の人々に何等かの影響を残しているはずである。(信時裕子)
