大阪-----生誕地、教会堂に住んだ頃を思う

信時潔が生まれた当時、父・吉岡弘毅は大阪北教会に赴任していた。
『バッハに非ず 信時潔音楽随想集』 にも収められている「問われるままに」にも
生まれたのは大阪の江戸堀でした。生後一カ月、牧師であった父に連れられて高知へ参り、五つ六つのころまでそこにおりました。

とある。
私が、大阪北教会を直接お尋ねしたのは、2006年10月のこと。事前に連絡をとって、森田牧師様にお話しを伺い、案内していただいた。

(大阪北教会 2006)

これはその時の大阪北教会の様子。ちょうどこの地区は再開発の真っ最中で、まわりに新しいオフィスビル、美術館、科学館などが次々と建ちあがっているところだった。

大阪北教会の隣は中之島尋常小学校だったと見た覚えがある。たしかに小学校跡地だった。廃校になったのはかなり前で、その後長らく阪大校舎として使われ、つい先頃取り壊されたという。おかげで教会の会堂に陽が入るようになったと、牧師様が何度もうれしそうに語られた。

信時潔自身が、大阪の教会堂について、詳しく書き残したものは無いが、兄、吉岡愛の自伝から、狭路から大阪に移った頃の記録を引いてみたい。

 大阪では父の牧する教会の牧師館に住ふことになった。家は二階建の新築で、相当の間数もあったが、何分近所合壁、家が建て詰って居ったので庭園らしい空地はなく、僅かに申訳の前栽があったばかりである。随って京都の広々した家に住み慣れた身には随分窮屈に感じた。
 徹兄は学業の都合で京都に居残ることになったので、私は大阪の家では四畳半の一間を宛行われ、こればかりは京都の家よりは結構だと思った。
 着阪後早々盈進高等小学校に転校したが、何分其当時には国定教科書なく、各地方で異なった教科書を用ひて居ったので入った当座は随分辛ひ目に遭った。(以下略)
(「第二部 吉岡愛伝」『父を語る 吉岡弘毅伝』  
 http://id.ndl.go.jp/bib/000002352509 p.114-115)


吉岡弘毅の次男・愛と三男・潔は、三歳違いだった。潔は大阪に移ってすぐに大阪市立中之島尋常小学校へ転校。翌春、兄と同じ盈進高等小学校に進んだが、間もなく信時義政と妻・げんの養子となり、翌年4月には大阪府立師範学校付属小学校高等科へ転入学している。吉岡家を出て、信時家で暮らすようになったらしい。

十歳の頃大阪に帰り、旧和歌山藩士信時氏の養子となり、中之島北教会牧師館を出でて野田に住む。当時の野田尚半農半漁の俤を存せり。
(田村茂[撮影]『現代日本の百人』信時潔の項 
 http://id.ndl.go.jp/bib/000000899366 p.93)


2006年に訪ねた時、教会堂は、再開発のため、間もなく建物を数十メートル移動することになっていると聞いた。今、大阪北教会のホームページにも「2007年 中之島4丁目再開発に伴い、50m東(中之島4―3―13)に新会堂を建設する。」とある。


2018年2月2日、「海道東征」が大阪で上演されるその日、早めに大阪に着き、ふたたび、国立国際美術館の裏手に建つ教会堂を見た。

              (大阪北教会 2018)

50メートルほど移動したとは言うが、この地に100年以上続く教会。教会の後方では、まだ開発が続くようだ。
土佐堀、江戸堀、などの名が潔の書いた文章にも現れる。小・中学生の頃、どのあたりまで遠征していたのだろうか。GOOGLE MAPを頼りに、その日「海道東征」を上演する「ザ・シンフォニーホール」まで、歩いて向かった。
(2018/08/14)