松江-----松江の夏とヘルン旧居

これまでの「ゆかりの地を訪ねて」シリーズは、生誕の地、一定期間居住した地を訪ねたものだった。

これからは、潔のかつての旅行先、立ち寄った場所、などもう少し幅広い「ゆかりの地」を、潔が書き残したもの、作品、演奏記録などと合わせて、辿ってみたい。

『バッハに非ず 信時潔音楽随想集』 に、「松江行」という小紀行文が収められている。昭和23年7月25日から8月1日にかけて、ピアニストの高折宮次、声楽家の木下保らと、旅に出たらしい。島根大学の関係の講習会と、信時作品の演奏会のための旅だったようだ。米子と松江で公演する予定だったようだが、米子は木下氏の体調不良で中止となった。


昭和23年、松江・自作演奏会と講習会に関する調査

松江での自作演奏会とは、何だったのか調べるために、松江の島根県立図書館で島根新聞マイクロフィルムを閲覧したところ、以下の情報を見つけた。

信時潔作品コンサートアーベント [七月]二十七日午後八時より松江市公会堂で、出演者はテナー木下保、ピアノ信時潔、高折宮次の三氏、以上いずれも松江音楽協会主催、会費各七十円  (『島根新聞』昭和23年7月12日)


同コンサートで、信時潔がピアノを弾いたように書いてあるので、少々驚いた。大正期には自作の伴奏などを弾くこともあったが、昭和期の、それも戦後になって、コンサートなどで自らピアノを弾いている例はあまり見た覚えがないからだ。地元紙の事前情報でもあり、思い違い、書き間違いの可能性もないとはいえないが、翌日の新聞に、会費の訂正が載っていて、出演者については何も書いていないのでやはり正しいのだろうか。

夏季大学音楽講座既報松江音楽協会。本社等共催の本講座は、学校教員資格認定の時間に取入れられることになった。なお、十二日本欄の信時潔演奏会の会費各七十円とあるは五十円と訂正  (『島根新聞』昭和23年7月13日)


私は、上記『バッハに非ず』の巻末解説(p.181)に「講習は島根大学の関係で開催されたらしい」と書いたが、どうも書き方が正しくなかったようだ。
信時家に残る記録では「県教育部長」「師範男子部長」などと会っている(個人名なし)ことがわかり、それを地元の教育学部のある大学「島根大学」と考えて書いていた。昭和23年の新聞を見ると、ちょうど7月頃に、島根県の新制大学設置の最終案が出されようとしているところだった。例えば7月6日の島根新聞の見出しは「教職員そのまま 島根大学最終案の本極り真近か」とあり、まだ文部省にどのような案を出すか、最後の調整をしているようだ。

上に引用した7月13日の新聞記事で「夏季大学音楽講座既報松江音楽協会」とある「既報」が何か、少し前を辿って探してみたが新聞マイクロフィルムには欠号もあって、見つからなかった。「師範学校」などの記録もいくつか当たってみたが昭和23年の詳細な記録は残っていない。
松江音楽協会という団体は今もあるが、それは「平成」24年に始まったNPO法人で、県立図書館の蔵書目録などでも、昭和20年代のそのような記録は見つからなかった。

潔自身「松江行」の最後で「土地の洋楽愛好者は良い指導者を得て会を作り、毎月一流の演奏家を招き、中々耳も肥えて居り、開催の時間は厳守され、会場の秩序も立派である」と褒め上げているのは、おそらく当時の「松江音楽協会」のことだろう。今回、県立図書館の資料では、「講習」の詳細は確認できなかった。


島根大学では、2013年、音楽教育専攻60周年記念事業にむけた専攻沿革資料作成のための予備調査を行い、「30周年記念誌」等で言及されていなかった新たな情報を得ているようだ。昭和23年の記録が、どこかで明らかになることを期待したい。
https://www.edu.shimane-u.ac.jp/gakubu_project/project_houkoku/project_houkoku2013/11.html


松江の町をめぐる

松江について、次のように書いている

仕事の合間に見た松江の町は、電車も通らず、数多い橋の畔には古い柳が枝を垂れ狭い街路はすぐに曲って見通しがきかず、道行く人の物言いもやさしい静かな城下町である。(中略)形勝の地を占める小ぢんまりした天守に昇って、全市を見晴らすと、・・・まぢかく横たわる周廻十三里の宍道湖を抱く平野は、正に盛んなる夏である。


もちろん車は増え、今はビルも建っているが、一部の佇まいはあまり変わっていないのかもしれない。ちょうど全く同じ8月初め、暑い盛りに同地を訪れたので「涼風は物見の窓から押し入って、私の懐をふくらませる」の実感も伝わってくる。

今回の訪問で、とくに感慨深かったのが、ヘルン旧居だった。

閣を下りてその丘に沿う水が豊かで、小魚がいそうな濠の低い橋を渡り、旧士族屋敷の一角のヘルン旧宅を訪ねる。玄関の式台に近く、紫の花をつけた夾竹桃のような外来植物が目につく。しとやかな御嬢さんの案内で、家の中を見せていただく。

門の前で、すぐに目についたのは紫の花だった。「え?紫の?今もある?」と。確かに武家屋敷の佇まいとは少々違和感がある「外来植物」。おそるおそる、受付にいらした「しとやかな御嬢さん」に、玄関先の花は何かと尋ねて見た。よく聞かれるのか、即答され、名前が書かれた写真があることも教えてくれた。

ルリヤナギ。「ヘルンさんが住んでいたころには無かったものですが」とのこと。ヘルンさんが住んでいた明治のころには無かったけれど、昭和23年の夏にはあった。そして65年後の、この夏も咲いていた。
ルリヤナギ


ヘルン旧居の家屋と庭は、見事に維持・管理されていて、立派な展示設備の記念館以上に、私にはうれしかった。

三つの庭、石灯籠。長押の上の小壁に秋草を描いた奥の間、蓮の葉、その向こうの竹藪、
白壁の蔵。姿は見えなかったが微かに蛙の鳴く声が聞こえる。夏の間は6時閉館と聞いて、陽が傾き風が通り始める頃まで、すっかり長居してしまった。


不昧公と菅田庵

不昧公の茶室菅田庵は、昭和23年当時修繕中で、係の人の好意で特別にのぞかせてもらったようだ。
なんと、今年も「約70年ぶりとなる建造物の大規模修理と、合わせて庭園の整備が実施されており、ともに平成31(2019)年秋の竣工を目指しています」とのこと。

松江市・菅田庵 案内ページ (2018年8月14日確認)


祖父潔が遭遇した70年前の修理のあと、一般公開されていたようだが、今回の私の訪問は、ちょうど「約70年ぶりの修理」期間と重なってしまった。
菅田庵を見ることはできなかったが、ちょうど松江歴史館で企画展「<不昧公200年祭記念 特別展>松平不昧  茶のこころ」を開催していたので、見て回った。「全然茶道をわきまえぬ」私も、少しだけ松平不昧の茶のこころに近づけただろうか。


(2018/08/19)