ベルリン-信時潔ゆかりの地を訪ねて-
「ベルリン」 信時潔ゆかりの地を訪ねて
2013年3月、突然長めの休暇が取れる状況になり、「そうだ、ベルリンに行こう!」と思い立ちました。
私の研究テーマである「信時潔」は1920年から1922年、文部省の在外研究員として、ベルリンに行っています。これまで、大正末年から晩年まで過ごした国分寺以外の場所として、生誕地大阪、育った土地の京都、高知。大正時代に住んだ巣鴨などを訪ね歩いて、ブログNo-b-logの・ぶ・ろぐにも記録してきました。残る「ベルリン」にいつか行かなくてはと、チャンスを待っていました。
海外は実に久しぶりで、かつて私がヨーロッパに行った頃は「West Germany」という国があり、もちろんユーロもインターネットもなかった・・・隔世の感がありますが、今回のように半分「調査旅行」の場合、自分の夏休みに行っても「休暇中」といわれるのは明らかで、このチャンスを逃すわけにはいかないと、覚悟を決めて厳冬のベルリン入りを果たしました。
以下、信時潔ゆかりの地を巡るベルリン紀行です。
ホテルから近いカイザーヴィルヘルム教会に歩いて行ってみる。ここは、信時ほか、多くの音楽学生が住んだシャルロッテンブルク地区からも近く、DOMとともに、多くの日本人留学生が行った場所だろう。信時は「Gedachtnis 寺」でバッハ レーガー アーベントを聴いている。信時潔著『バッハに非ず』の座談会にも登場している小宮豊隆も「ゲデヒトニス・キルヒェ」へ「バハのオルガンの曲を聴きに出かけ」たが、閉まっていて聴けなかったと書き残しているそうだ。(『言語都市・ベルリン1861-1945』藤原書店)。第二次大戦で破壊された教会は戦争への警告碑として廃墟の主塔部を残し、新たに八角形の鐘楼がその周りに建てられた(中村真人『素顔のベルリン』ダイヤモンド社)とのことだが、現在は工事中で、廃墟塔は工事用の保護壁ですっかり覆われていた。毎日あちこち出歩いていたので、なかなかその鐘の音を聴くことはできなかったが、ベルリン滞在最終日の18:00、ついに聴くことができた。信仰を持たない私でも、なにかが、隠れた記憶に届いているように感じる鐘の音。90年前もこのような音が鳴っていたのだろうか。
ドイチェ・オーパーでは「トリスタンとイゾルデ」を見た。インターネット時代、わずかな手数料で、事前予約もできてしまうのがありがたい。今年はワーグナー生誕200年の記念年で、ドイツでは例年以上にワグナーが取り上げられているらしい。音楽書店の店頭にもワーグナーがずらりと並んでいた。
信時潔もベルリンで「トリスタンとイゾルデ」を見て、「初めてワーグナーを承認」し、「よき楽劇」としている。ドイツ語の歌唱にドイツ語字幕。休憩時間に隣席のおばさんが話しかけてきたので、話が長く私にはドイツ語が難しい、と英語で答えたら、英語で「Too Much Love!」。「そしてすぐに死にたがる」と表現していた。舞台の装置が今風なのは、勿論意図する所があってのことだろうが、音楽も劇の進行も昔のワーグナーそのもので、決して現代ミュージカルではないので、私には違和感充分。これが現代的解釈というものなのか。感心したのはオーケストラの音。そうか、トリスタン和声を効果的に響かせるのは難しいのだと、聴きながら思い至る。和声的にどこかの音だけが突出してはいけなそうな、微妙な色彩。注意深く音を出している息遣いが伝わる。その音を出すにいたる、この地の音楽家たちの歴史的背景、というようなものさえ感じられるサウンドだった。歌の評価が正確に出来ないのは誠に申し訳ないが、とくにこちらに感心したのが私の限界。
この日はベルリン在住のジャーナリスト中村真人氏にご一緒いただいた。
中村さんは『素顔のベルリン』の著者で、「ベルリン中央駅」http://berlinhbf.exblog.jp/などでも情報発信している。事前にWEBで何か調べるたびにこのページに当たったものだった。
信時潔の留学先に関しては、1920年7月1日から1922年6月30日の間、Meisterschule fur musikalische Komposition でProfessors Dr. Georg Schumann に師事したことがわかっている。これが現在のベルリン芸術大学(UdK)に繋がるものなのか、どんな組織なのか、いまひとつわからなくて、確認したかった。事前にメールで照会した結果、Meisterschule fur musikalische Komposition関係資料は、ロベルト・コッホ広場のAkademie der KunstのArchivにあることが判明。この日のアポイントを取っていた。
コンピュータで何でも出るからどうぞ、といわれたが、どの項目に何を入れるのか操作も少々難しく、中村さんを介してアルヒーフ(アーカイヴ、文書館)のスタッフとのやり取りで検索対象を絞り込み、いくつかの資料を請求した。書庫資料の取り出し時間は限られていて、次は13時といわれ、一旦外出することにする。
向かった先は、すぐ近くの「森鴎外記念館」。中村さんの紹介で長年この記念館を切り盛りしてきたベアーテ・ヴォンデさんにお会いした。日本語も堪能、もともとのご専門は村山知義だったそうだが、今では鴎外のほか、ベルリンに滞在した日本人もよくご存知。春からの展示の準備に、東京の鴎外記念会の事務局長倉本幸弘先生もいらしていた。展示室の入り口に飾られているのは、ヴォンデさんが最近ドイツ語訳した「沙羅の木」。その「沙羅の木」に信時潔が作曲した楽譜は一般に印刷・出版されていないため、鴎外記念館あたりに相談したいと思っていたのだが、まさかベルリンで突然その機会が訪れるとは。倉本先生も、楽譜の所在をご存知なかったとのことで、ベルリンではそれぞれ目下の課題を果たし、「沙羅の木」については東京での再会を約した。この記念館は鴎外が住んだ下宿(建物の一角で部屋は特定できない)で、調度品などもその頃のイメージで揃えている。留学年の差はあるものの、日本人留学生の「下宿部屋の様子」は似たようなものだっただろう。
アカデミーの資料取り出し時間になったので、戻って閲覧。マイクロフィッシュで学籍簿をみるとJapanの文字が目に入り、Kiyoshi Nobutokiの名前。手書きで記入されたものなので、総ての年、総てのページが同じ情報量とは限らない。いくつか複製を依頼。数週間かかるらしい。
盛りだくさんな一日、このあと、UdKのArchivのDr.Schenkとの約束があり、急いで向かう。事前のメールで「Hochschule」と「Meisterschule fur musikalische Komposition」の関係を質問したところ、その関係はa little bit complicatedとのこと。信時在学当時の直接の資料はアカデミーにあるはずだが、是非UdKのArchivにもどうぞ、というお誘いを受けて、お約束したのだ。Dr.Dietmar Schenkは「Die Hochschule Fur Musik Zu Berlin」(Franz Steiner Verlag, 2004)の著者。もう夕方近くスタッフも退勤する時間だったが、快く迎えてくださった。事前のメールから、私が興味を持ちそうな資料を取り出しておいてくださったのだが、まあこれが宝の山。うわ、これなに、うわ、これすごい、これあった、といった言葉が次々出てしまう。
すぐには消化しきれない。いくつか資料を複製していただき、いくつか質問して、日本に帰ってからじっくり復習、としないと時間が足りない。ほんとにつたない英文メールで、私が探している情報について質問しただけなのに、とても親切に、的確な資料を探してくださり、そして惜しみなくそれを分けてくださる。研究者なら、すぐ欲しいでしょ、これ必要でしょ、どうぞ、と。
ご自身も研究者で、資料探しをしていらしたからこその配慮、本当に有り難い。それにしても、そこにある机はフランツ・シュレーカーの机だというし、書庫も見たいかと問われて入れていただいたアルヒーフの書庫は体育館みたいな広さ。3メートルはありそうな書架。資料は箱に入れて平置き。あらゆるものが保管され、整理を進めているところだった。図書館とは別に、こうしたアルヒーフという部署を持って、専門の先生やスタッフが居て・・・。日本にも是非アルヒーフをという仕事をしたことがある身には「土台が違う」ことがこたえる。日本は発展途上国であることを思い出す。
ここにチェロと楽譜を置けば信時潔の部屋になりそう。
横にあるのはフランツ・シュレーカーの作曲机。
譜面台が付いている。
バスで、ジーゲスゾイレ(戦勝記念塔)の前を通り、ティーアガルテン(鴎外は『舞姫』で獣苑と表記した)を抜け、ブランデンブルグ門に着いた。ベルリンの壁崩壊のニュースで何度も目にした、あの門の前Parisier Platz(パリ広場)に面して、Akademie der Kunsteという建物がある。ここに、信時潔が就学したMeisterschule fur Musikalische Kompositionがあった。今はイベントや展示を行う場所のようだ。
次に向かったのはDOMと呼ばれるベルリン大聖堂。ここは、ベルリンで最大の教会で、16世紀以来ホーエンツォレルン家の菩提寺で、1905年に現在の壮大な姿になった。パイプオルガンは世界最大級だという。(中村真人『素顔のベルリン』)。信時潔はここで、ブラームスのドイツ・レクイエム、パレストリーナの教皇マルチェリウスのミサなどを聴いている。
ウンターデンリンデンの州立歌劇場Staatsoperは現在工事中。信時潔は「国立オペラ(今は東ベルリン)の楽屋口で友人と話しているリヒャルト・シュトラウスを見た」と書いている。(信時潔著、信時裕子編『バッハに非ず』)
この日の夜は、Konzerthausでオッコ・カム指揮のシベリウス・プログラム。時間がなくてタクシーでホールに向かう時、固有名詞なら通じるだろうと自信を持ってホール名を言ったのに通じなくてショック。あとで考えたら「コンチェルト」と発音していたらしい。あ、イタリア語だった・・・コンツェルトと、そんなに違うかな・・・。しかしそのタクシーの運転手はラジオのクラシックチャンネルを聴いていて驚いた。日本では経験したことがない。シベリウスのヴァイオリン協奏曲のソリストはフィンランド出身のPekka Kuusisto。アンコールでフィンランドの民謡と、「それよりずっと新しい曲」と紹介してバッハを弾いていた。
修復工事中、オペラはシラー劇場で上演されている
信時潔も登ったジーゲスゾイレ(戦勝記念塔)に行ってみた。昔は、帝国議会前の広場に建っていたが、ヒトラーのゲルマニア計画に先立ち1939年に現在の位置に移転したそうだ。285段の階段を登るとティーアガルテンが一望できる。女神とこの眺望。帰ったらもう一度映画「ベルリン・天使の詩」を見てみよう。本当は国立図書館の中も見たいのだが、残念ながら最近外国人は入れないらしい。
再び中村真人さんに案内をお願いして、信時の下宿があったペスタロッチシュトラーセ31番地を目指す。そこは現在Karstadtというデパートになっていた。かつてそこにあった建物の2階(日本流に言えば3階)に住んでいたのだ。通りの名前は1920年と同じだが、たいていの建物は新しい。その近くに、中村さんもよくご存知の「Volkshochschule Charlottenburg-Wilmersdorf」という市民学校がある。カルチャースクールのようなものらしい。古い地図でこの地区を確認した時、近くに「SCH」とだけ書かれた変わったマークがあって気になっていたのだが、それがこの学校らしいのだ。
あとで中村さんが探してくれた情報によれば1895年の建物。変遷はあったようだが今も現役の「学校」とはすばらしい。同じく近くの古い建物はトリニティ教会。古い地図にもその教会塔が描かれている。様々なステンドグラスが美しい。聖歌隊など音楽活動も盛んな教会らしく、信時もここでバッハを聴いている。
次に、ウンターデンリンデンの現・フンボルト大学方面に向かう。その隣にゲオルク・シューマンが深く関わっていたジングアカデミーがあった。旧東ドイツだった地区で、今は「マキシム・ゴーリキー劇場」となっている。屋根の下に「MAXIM GORKI THEATER」と書いてある部分、昔の写真では「SINGAKADEMIE」とあった。このホールでシューマン先生指揮の練習や演奏会に接したのだ。信時帰国後の合唱曲は、ジングアカデミーの合唱に接し、それを日本で実現したものだろうと、私は思っている。合唱隊としてのジングアカデミーは東西ドイツ分裂によって二つに分かれ、この場所ではないが今もそれぞれで活動していると聞いた。
もう一つゆかりの地を巡る。戦前の旧・フィルハーモニー。信時は本当に足繁く通っていて、ニキシュやフルトヴェングラー、シュレーカー、ワインガルトナー、グラズノフなどの演奏を聴いている。日本での洋楽演奏は室内楽程度に限られ、レコードも来日公演もなく楽譜だけが頼りだった時代に西洋音楽を学び、念願かなってベルリンにやってきて、とにかく片端から聴いておきたい、焦るような気持ちがあっただろうと思う。戦災でホールは失われ、跡地は広場になっている。入り口にアーチがあり、その前に埋められたプレートに「DIESER WEG FUHRT ZUM ORT DER ALTEN PHILHARMONIE 1882-1944」とあった。
この日、最後に目指すのは、リヒターフェルデ。中心地からSバーンで約30分。信時潔が師事したゲオルク・シューマン先生はこの地に1902年から住んでいた。作曲のレッスンは主に先生宅で行われていたようだ。昨年11月に洋楽文化史研究会が開催した演奏会「信時潔生誕125年―信時潔とその系譜」は、その「系譜」のスタートとして、ゲオルク・シューマンの作品を上演した。前にもシューマン先生の肖像写真が必要になったときに、連絡をとったことはあったのだが、今回改めてゲオルク・シューマン協会に連絡を取り、演奏会の趣旨を伝え、プログラム冊子に掲載するメッセージを頂戴した。演奏会終了後、約3ヶ月が過ぎていたが、メッセージを掲載した冊子など報告の資料を持って伺いたいとメールして、この日の夕方の訪問が決まった。
シューマン先生の孫娘であるガブリエル・カイザー・シューマンさんは、今も同じ家に住み、古書を扱うお店を経営している。この地区はかなり贅沢なお屋敷街らしい。そして着いたのがこの邸宅(下写真)。シューマン先生のレッスンはここで行われていた。ゲオルク・シューマン協会会長のミヒャエル・ラウテンベルク氏は、どこかの会社か先生をリタイヤしたような方を想像していたのだが、意外にも若い方だった。そして孫娘同士カイザー・シューマンさんと対面。旦那様のハンス・ユーゲン・カイザー氏も協会の役員のようだ。
ここで更に驚くことになる。「音楽で歓迎します」と、ゲオルク・シューマン作曲のピアノ曲と独唱曲の演奏が始まったのだ。「三つの作品 op.23」と、「四つの歌 op.10」。演奏はピアノGraham Cox氏、独唱Helmut Kahn氏。
貴族の館のような所にセーターとパンツの街歩きスタイルで来てしまったことが恥ずかしくなる。「極東の地」からやってきた私のために開いてくださったサロン・コンサート。こんな贅沢があるだろうか。取り上げた作品によるのかもしれないが、信時潔の作品に比べて、かなりRomantischな感じもする。ピアノ曲の一つ、バルカローレは、信時のピアノ作品にも似た旋律があったような気がした。信時は、シューマン先生を、その演奏も、作品も、人柄も、本当に敬愛していた。
演奏のあとに優雅なティータイム。室内にはシューマン先生一族の肖像、写真、そのほかゆかりの写真や絵が沢山飾られていて、ひとつひとつに長い物語がある。協会は先生を顕彰する活動を続けていて、既に数点のCDを出し、年内に更に3点ほど作る予定だという。ゲオルク・シューマンの自筆譜は、「当然」国立図書館に収めてある。「あなたも?」と聞かれ返事に困る。残念ながら日本の国立図書館はそういう活動をしていない。信時のように東京藝術大学の図書館に収められているのは非常に恵まれたケースなのだ。ゲオルク・シューマン協会の方も、シューマン先生の当時の様子を直接知っているわけではないので、弟子から見たシューマン先生、どんなレッスンだったか、などについて知りたいという。細切れながら、いくつかのエピソードを交換する。昨年11月の演奏会への協力に対してお礼を述べ、プログラム冊子をお渡しした。演奏会当日の舞台写真をお見せしたところ、録画があれば是非見たいといわれ、後日お届けすることを約束する。信時の合唱作品「あかがり」にドイツ語の歌詞がついて海外で発表(出版)されたことがある。昭和初年のことで、シューマン先生の関係で掲載に至ったのではないかと想像しているのだが、それに関する手がかりは得られなかった。
日本でもあまり知られていないが、箕作秋吉、諸井三郎、須藤五郎、近衛秀麿などが、シューマン先生の教えを受けている。こうした情報交換によって、いつかベルリンで、ゲオルク・シューマンの「系譜」のコンサートができるかもしれない。
Karstadtデパートの角だった。
この形が古い地図に現れていた。
フィルハーモニーの土台部分か。
ピアノは Bechstein
筆者、ピアニストCox氏
この日は、15日(金)に資料を見に行ったベルリン芸術大学(UdK)の、昔の校舎を見に行く。かつて山田耕筰を始め多くの日本人音楽家が学んだベルリン高等音楽院Hochschule fur Musik in Berlin(名称の変遷については、ひとまず不問として)の校舎だ。信時が所属し、学んだのは、Akademie der KunsteのMeisterschule fur musikalische Kompositionという別の組織であったが、ホッホシューレのコンサートに度々出かけているほか、シューマン先生に呼ばれてホッホシューレの教室に出向いたこともあったようだ。レッスンなのか、聴講なのか、会合なのか、詳しくはわからない。
Zoologischer Garten駅から歩ける距離にあり、ここでもまた脇の道路は工事中。校舎の前の大きな木が落葉しているからまだ良いものの、昔の絵葉書のような写真が撮れない。Dr.Schenkから「守衛はいるけれど、昔自分の先祖がここで学んだといえば入れてくれるだろう」と伺ったので、入って見学して写真を撮っても良いかと聞いてみると、見るのは良いが写真はダメとのことだった。
現在ベルリン芸術大学(UdK)の音楽部門の学生は、別の校舎を使っていると聞いたが、ここにもレッスン室、研究室などがあるらしく、あちらこちらから音楽が聞こえる。真ん中に吹き抜けがあり、それを囲む廊下の外側にぐるりと、小さめの部屋が並ぶ。その廊下とレッスン室の感じは、ちょっと上野の旧東京音楽学校奏楽堂と似ている。
Bibliothek der Edvard-Grieg-Forschungstelleという部屋もあり、週に2日、各1時間オープンしているようだ。208という部屋は「Joseph Joachim Zimmer」という札が出ている。その前のラウンジにはヨアヒムの胸像のほか、数々の写真と、ヨアヒムやその弟子たちの活動を示すパネルが飾られている。写真のキャプションもかなり詳しく、iPhoneのドイツ語辞書を頼りに時間をかけてじっくり読んだ。
このあと、「西のデパート」KaDeWe(カーデーヴェー)などを見物。ここは1907年創業。モノに対する執着がない信時が、ここに立ち寄ったことがあったかどうか。
夕方から雪が降り始めた。雪が降っていても誰一人傘をさしていないので私も傘を持たずにジャズ・ライブ・ハウス「Bフラット」へ向かう。FA-VOというユニットが新しいCDをリリースした記念ライブ。バス・クラリネットとソプラノ・サックスの兄弟に、ゲストの男声ヴォーカルが入る。ンビラやウクレレが入ったり、突然「カルメン」のハバネラを歌ったりして面白いが、モダンジャズにしてはかなり大人しい。終演はほとんど12時で、すでに受付は店じまい、記念に買おうと思っていたCDが買えなかった。
フリードリッヒシュトラーセのデュスマンDussmannという店は、CD、DVD、本、別棟には楽譜もあり、CDはどれでも試聴できるそうで、これは一日居られそうだ。ジャンルごとの、この店で売れているCDというコーナーもあって、この地ならではの顔ぶれも。
そこから歩いて、博物館島へ。約90年前に信時が見ていることから、カイザー・フリードリヒ博物館、現・ボーデ博物館に行ってみる。1904年開館で、第2次大戦後今の名称になった。宗教的題材の数々の彫刻は、知識がないとどう見てよいのかわからない。こんなことで、西洋音楽を聴いていていいのかと悩ましい。大ドームは圧倒的空間。
先日、ベルリンの街を案内しましょうと誘ってくださったゲオルク・シューマン協会会長ラウテンベルクさんと、ジャンダルメンマルクトの「シラー像前」で待ち合わせ。要するにコンツェルトハウスの前だった。広場に面したドイツ・ドームは、ドイツの政府が歴史などの展示をしていて、入場無料。外観と入り口付近を観ただけで、ゆっくり展示を見る時間は取れなかったが、ラウテンベルクさんが案内CD-ROMや「The Milestones, Setbacks, Sidetrackst : The Path to Parliamentary Democracy in Germany」「The German Bundestag in the Reichstag Building」という本をプレゼントして下さり、日本に帰ってからの宿題が増えた。
ベルリンでもっとも美しいといわれるジャンダルメンマルクト広場に面したカフェに入る。窓際の席からコンツェルトハウス、ドイツドーム、フランスドームをゆっくり眺められる最高の立地。メニューをよく見なかったが普通のヨーロッパ風カフェとは違うアジア風の趣き。一番上に書いてあったTeeを頼んでみたら、水中花のようにミントが茎ごと入った透明のグラスが来た。底のほうに入っているのはレモンと生姜だろうか。それにハチミツを入れていただく。
ラウテンベルクさんは、最近転職されたばかりで、時間を作るのはかなり大変だったようで、本当にありがたい。協会のCD制作のこと、ジングアカデミーの演奏活動のこと、それから私が知りたかったガルニゾン教会のことなど、いろいろと教えていただく。
暗くなってライトアップされたジャンダルメンマルクトの眺めも美しく、こんな素敵な店がガイドブックにもGoogle Mapにも載っていないのが不思議だ。
ベルリン滞在最後の日、昨日詳細がわかった「ガルニゾン教会」の跡地に行ってみる。7日間有効チケットも最終日、ようやく乗り方にも慣れたSバーンでハッケッシャーマルクト駅下車。iPhoneとGoogle Mapで確認しながら場所を探し当てた。今回Google Mapには随分お世話になったが、レンタルしたWiFiルーターのせいか日本で使っている時に比べて位置情報の反応が遅く、移動中はあまりあてにできないし、ジーゲスゾイレ(戦勝記念塔)を検索したら全く違う公園にあることになっていて驚愕し、以後用心しつつ利用した。信時潔はベルリン滞在中「ガルニゾン教会」に、非常に多く足を運んでいた。昨日のラウテンベルクさんの話で、ジングアカデミーがよく宗教曲を歌った会場がガルニゾン教会だったことがわかり、納得がいった。
ゲオルク・シューマン先生指揮によるジングアカデミーの合唱をガルニゾン教会で聴いたのだ。バッハの「クリスマス・オラトリオ」「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」、ハイドン「天地創造」、ヘンデル「メサイア」「ユダス・マカベウス」などを聴いているが、とくにマタイ受難曲については、「始めの二重合唱、第一部終りの合唱、最後の合唱の深い感動は終生忘れられないだろう」と書き残している(信時潔著、信時裕子編『バッハに非ず』)。
ガルニゾン教会は、ベルリンに駐屯していた軍人のための教会で、戦後「軍」を持たなくなったベルリンではその役割を終え、戦災をうけた教会は修復・再建されることなく取り壊された。現在は「ガルニゾン広場」が残り、その片隅に教会の歴史を説明する案内板が立っていた。中村真人さんに教えていただいたのだが、この教会は六草いちかさんの名著『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』(講談社)で、鴎外が「クロステル巷」とした教会だったことを探し当てた教会だそうで、古い写真もその本に掲載されている。
このあと、どこへ行くのか決めていなかったのだが、ふと顔をあげるとテレビ塔と赤い建物が見えるので、そちらへ向かう。なるほど「赤の市庁舎」。
このあたりはバスで来た団体観光客が多かった。すぐ近くに特徴的な二本の塔を持つ「ニコライ教会」。古い街並みを再現した通りを適当にぬけて、ずんずん歩いて行ったら道がわからなくなったが、偶然目の前にHauptbahnhof行きのバスが来て助かった。U-Bahnの駅まで行けばなんとかなる。
次に向かったのは「新」フィルハーモニー。ほぼ毎日1:30からガイドツアーをやっていると聞いた。私の滞在中、ベルリン・フィルは演奏旅行でベルリンに居なかったようだ。一度はこのホールで聴きたいと思っていたのだが、日程が合わず、ホールのガイドツアーに行くことにした。
時間に集まったのは30名弱。10名ぐらいのグループもある。通常英語かドイツ語のガイドがあり、団体で予約すれば他の言語も対応できるらしい。この日のガイド女性はきれいな英語で案内してくれた。ハンス・シャロウンが、船をイメージしてデザインしたといわれれば、なるほどと思う空間。しかし、迷子になりそうな複雑な構造だ。
ホールのすばらしさ、偉大さを示すだけでなく、長時間シャッターを開けたままで撮ったオーケストラと観客の写真(指揮者は当然見えなくなるほど動いているが、足が動いていないチェリストと、完全停止している観客が不思議)とか、一人がオーケストラと聴衆に扮したコラージュ写真に、数名だけ違う人が居るという「ウォーリーをさがせ」的写真・・・そういったもので楽しませる工夫が秀逸。リハーサル以外は写真撮影も自由だ。
ベルリン・フィル常任指揮者カラヤンのアドヴァイスを取り入れたというサントリーホールと比べると、奥行きがかなりたっぷりしていて、広々とした「ワインヤード」の感じがより強い。これで中央ステージの音がどのぐらい届くのだろうか。小ホールも、全く同じワインヤード方式。この日はトルコとアルメニアの音楽を取り上げた現代音楽フェスティバルのリハーサルが行われていた。
ベルリンの旅の終わりに、毎日利用した動物園駅のすぐ前の「動物園」に行ったが、ちょうど閉園の5時をまわったところで入れてもらえない。信時が「獅子の肉を啖ふを見た」という動物園。その門柱の上に雪をかぶった「獅子」が見えたので記念撮影。
カイザー・ヴィルヘルム記念教会の鐘の音を聴きながらホテルに戻り、ベルリンで集めた資料をスーツケースに詰め込んだ。
ベルリンは、治安もよく、街が小さめで動きが取りやすい。少しの雪で大混乱する東京のブーツで歩いても平気なのは石畳や道に撒かれた砂のせいか、雪の質が違うのか。確かに寒いが、ダウン・ジャケットと手袋、マフラーでしのげる程度。なんといっても文化芸術が、身近にたくさんある都市ベルリン。
第三帝国時代?東西分断時代に関わる史跡等にはほとんど触れずに過ぎてしまったことは、広島に行って原爆ドームを見ずに帰るようで少々後ろめたいが、時間が限られてるので仕方ない。自分の今までの調査結果に基づいた、また興味を持てる範囲だけの極私的「音楽都市・ベルリン」だった。
およそ90年前の、一人の日本人作曲家のベルリン滞在の日々を、その足跡を、確かめようと突然現れた私を、快く迎え、助けてくださったベルリンのみなさまに、心からDanke Schone!