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No-b-log の・ぶ・ろぐ過去記事

2009年7月4日 00時00分

「海道東征」の手書きスコアが盛岡に? (其の2)

5月11日、岩手大学図書館から返事が届きました。
 
「海道東征」の楽譜は確かに図書館内に展示している。ただし、資料の所属は同大学「教育学部音楽科」で、そちらの教員に入手経路の詳細を問い合わせ中、とのこと。 そこで、教育学部音楽科のご担当・木村直弘教授(音楽学)の連絡先を教えていただき、直接メールでのやりとりが始まりました。
 
木村先生は、私を一応研究者のはしくれと認めてくださったようで、資料の状況などについても、かなり詳しい(今、メールの履歴をざっと見ても10往復以上)やりとりが続きました。教授という大変お忙しい立場にありながら、本当に丁寧に返信を下さり、恐縮してしまいました。
 
メールのやりとりでわかった盛岡の「海道東征」楽譜の詳細と、それが同地にある理由は次のようなものでした。
 
1.現在岩手大学にある「海道東征」手書きの楽譜は、表紙に「財団法人日本文化中央聯盟」の印がある。おそらく作曲完成時に、同曲作曲を信時に委嘱した団体「財団法人日本文化中央聯盟」に収められ、初演にも使われた楽譜だと思われる。同様の団体印が押されたパート譜は、東京芸術大学附属図書館に保管されている。
 
2.楽譜の一部の写真を送っていただいて見た限りでは、自筆ではない。多くの筆写譜と同じく、信時潔の妻・信時ミイによる筆写譜。第一章を「肇國」から「高千穂」に直した形跡がある点などは、信時家に保管されていた自筆譜と同じで、かなり初期の楽譜(初版譜以前の)らしい。
 
3.何故、盛岡にあったのか。岩手大学の前身、岩手師範学校での上演(昭和18年7月17日。部分上演。ピアノ伴奏)とは関係ないらしい。岩手大学に収められたのは、比較的最近のことで、元は一関に住んでいた方が持っていた。由来はよくわからないが大切なものらしいと、その知人から、知人へと受け渡され、最後に岩手大学に持ち込まれ、しばらく教育学部で保管されていたが、せっかくだから公開をということで、図書館ロビーに展示されることになった。
 
4.一関に住んでいた方が何故持っていたか、については、当時を知る方が亡くなられていて、もはやわからないが、誰の、というよりも疎開してきた荷物一式の中に入っていたらしい、と伝えられている。
  
メールと、周辺資料の確認で、以上のようなことがわかりました。

実は、信時家に残っている「海道東征」自筆スコアは、ほかの自筆譜と少し違うので気にかかっていました。 大抵の「自筆譜」は眺めていても、気にならないのですが、「海道東征」に限って、ところどころ、「あれ?ここはミイの筆跡では?」と思う箇所があったのです。妻ミイ(大正4年東京音楽学校甲種師範科卒)による筆写譜は、それだけ見ていれば「筆写譜」とわかるのですが、両方混ざってくると、混乱してきます。

一般に、楽譜にしても、文章にしても、筆写していると、どうも字が似てくるようです。夫婦だからでしょうか?(夫婦は容貌も似てくると、よく言います) 以前「木下記念スタジオ」にお邪魔した際、木下保先生の楽譜と、奥様の木下照子先生(昭和10年東京音楽学校本科声楽部卒)が写した楽譜の筆跡が似ていて、どちらかとてもわかりづらい、という話を伺って、いずこも同じ、と思ったものでした。
 
そんなわけで、比較対照する楽譜が出てきたということは、見直しのチャンス。岩手で見つかった手書きスコアの「閲覧」に出かけることにしたのです。
  
日程調整の結果、6月最後の日曜日、盛岡に向かいました。
 

 (つづく)