小泉文夫と「海道東征」
小泉文夫について書かれた本、岡田真紀著『世界を聴いた男 小泉文夫と民族音楽』(平凡社 1995)の中に、意外にも「信時潔」という文字を見つけた。第一章の、小泉文夫が高校生だった頃の話として、「器楽合奏以外に男[声]合唱も楽しんだ。小泉の趣味は少し他の人と違っていて、西洋の古典音楽よりもむしろ山田耕筰や現代音楽といえる信時潔や高田三郎の抒情的な歌曲を好んで歌っていたという」の一節。
これをきっかけに思い出したので、書き留めておこうと思う。小泉文夫は、かつて東京混声合唱団の「合唱の歴史連続演奏会」(1959)のプログラムに掲載された「日本の合唱 古代から明治大正時代まで」の中で、「洋楽の直輸入の次に当然来るべき課題は、伝統との結合という問題」 「だが今日までつづいているこの問題の解答は、簡単に得られないでいる。山田耕筰のあとの最も注目すべき作曲家は信時潔であるが、氏の場合は、極端な抒情性の追及に走らず、ドイツ風の格調正しい和声体系の上で、簡潔な日本的表現に向かっているようである。交声曲「海道東征」は、合唱音楽におけるその最高の成果といえよう。」と書いている。
小泉文夫は「海道東征」を聴いたのだろうか。「海道東征」が初演された1940年は、小泉文夫が13歳で、府立四中(現都立戸山高校)に入学した年である。同校で、安部幸明の指導を受けている。1944年に旧制第一高等学校(現東京大学教養学部)理科乙類入学、音楽班に入り、ヴァイオリンや合唱の指導をうけた。合唱を指導した高田三郎は信時潔門下でもある。そのような学生なら、おそらく1940年~44年の間に「海道東征」を聴いていただろう。自らの経験もなく、なにかほかの資料を元に「最高の成果」と評したとは考えられない。まだ「戦後」の影響が大きく、朝日放送の「海道東征」再演(1961年)以前の、1959年という時期において、このような評価をしているところが興味深い。
同じ民族音楽学者の小島美子による「民族的な音楽への先駆者たち」(『音楽の世界』連載)などは、信時の音楽は、民族音楽的に「良くない」音楽であるかのように、コテンパンにやっつけている感があり、この小泉の一文を見つけたとき、少しホッとしたというのが正直な気持ちだった。
小泉の言う「簡潔な日本的表現」とはなにか。それがどこにあるのか。次の世代の研究者が、別の言葉で表現してくれればと願っている。
参考: 小泉文夫記念資料室「小泉文夫年譜」