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No-b-log の・ぶ・ろぐ過去記事

2009年8月10日 00時00分

「海道東征」パート譜の謎 2.  Y. Fujita とは?

昨日「思いがけないヒント&チャンスが訪れた」と書いたのは、4月7日、日下部吉彦先生が構成・司会なさった日本合唱協会の演奏会で、信時潔作品も採り上げられ、面識を得たことが最初のきっかけでした。

かつて、小説「海道東征」(『うるわしきあさも』(講談社文芸文庫)に再録)を書かれた阪田寛夫先生から、日下部先生が昭和37年朝日放送の海道東征再演の折に、スタッフの一人としてかかわっていたと伺った覚えがありました。今回は、日唱に知り合いがいたこともあって、演奏会打ち上げ会場にお邪魔して、帰りがけに日下部先生にご挨拶申し上げたところ、「ちょうど昨日、合唱連盟の「ハーモニー」の新譜案内に『信時潔作品集成』の原稿を書いたけど、その信時さん?」などという話になったのでした。

その後、岩手大学の海道東征スコアの件などもあり、資料を何度もひっくり返して見直していたときに、ふと、芸大所蔵のパート譜のなかに、初演年代と違う年が書かれた譜があることに気づきました。

一連のパート譜(バス・テューバを含む)とは別に、戦後かかれたものらしい楽譜があったのです。
ひとまとまりのパート譜として袋に入っていたので、まったく由来の同じものだと思い込んでいたのですが、いざ見直してみると、違うグループがあったのです。

スコア風のものが1部と、それに関連するらしいパート譜(3部)がありました。
スコアの表紙に Kleine Besetzung, Kaido-Tosei / K. Nobutoki / Bearbeited  von  ・・・ とあるところまでは、読めたのですが、そのあとの名前は、達筆過ぎてすぐには読めませんでした。 
五線紙は、数種類あるようで、よくある「文房堂」などのほか、「The Art University of Tokyo」とあるものもあります。楽譜末尾の日付は「1st December 1961」とあります。

表紙の筆記体のサインをはじめとして、全体的にドイツ語を書きなれた様子(よく使われる音楽用語や英語ではなくドイツ語だったので)なので、時代と状況、交友関係から考えて、Manfred Gurlitt ではないかと、彼のサインを探して見比べたりもしてみましたが、どうも違います。 しかも書きなれた風のドイツ語と同じ文字の勢いで日本語の「高千穂」「大和思慕」といった漢字も書かれているので、やはり日本人か・・・?しばらく悩みました。

ある時それが Y. Fujita ではないかと思いつき、オーケストラ楽譜に・・・FUJITA とは?・・・それはやはり藤田由之氏しかいない、と思いはじめました。実はかなり以前のことですが、まったく別の仕事で藤田先生のお宅をお訪ねして、日本のオーケストラ、とくに近衛秀麿と彼が関わったオーケストラのことなど、お話を伺ったことがありました。オーケストラの楽譜を書き換えて「近衛版」として演奏していた話を思い出したのですが、その弟子であった藤田由之氏自身もオーケストラ作品の編曲などをしたのかどうか。音楽評論家として知られる藤田先生がスコアの放送用編曲?・・・それについてはいまひとつ確信がなく、数日考え込みました。その時です。朝日放送再演の折に放送局の仕事をしていらしたという日下部先生に、伺ってみようと思いついたのです。幸いお名刺を頂戴していましたので、すぐに連絡がつきました。もちろん長いこと放送局、そして音楽界でお仕事をなさっていらして、その中のひとつの放送の細部を覚えているか、などと聞かれても困ってしまうだろうとは重々承知していたのですが。なにか少しでもヒントがあればと、勇気を出して、連絡してみたのです。

折り返しのお返事で、「1961年再演(1962年正月放送)の折に、オーケストラ関係のことを藤田由之さんにお願いしたことは事実」とのこと。しかも近いうちに、その藤田氏と仕事で会う機会があるので聞いてみましょう、とまでおっしゃってくださいました。

そして、6月29日の夜、「日下部さんから話を聞きました」と、藤田先生ご自身から、お電話を頂戴したのでした。 (つづく)