雑記帳(Q&Aなど)

寄せられた質問への回答、そのほか日々の資料整理作業の過程で思うことなど、
Q&A方式で随時書き連ねて行きたいと思います。
Q

25.1963年11月3日 文化の日 放送録音テープ より(2010.10.15)

A

1963年、信時潔が文化功労者に選ばれたことを記念して放送された番組のテープが我が家に残っていましたので、文字に起こしてみました。(信時裕子)

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特別番組 桜花(はな)の歌
   出演 信時潔
   M=男性アナウンサー F=女性アナウンサー

M: 今日文化の日。作曲家信時潔さんは日本音楽界に貢献した多年の功績を讃えられまして、晴れの文化功労者に選ばれました。幼く貧しかった日本の音楽を今日まで育んで来られた信時潔さんは武蔵野の面影を残す東京都下国分寺町の一隅に今なお尽き果てぬ芸術の道のりの高さを極め続けています。今日はこれから30分にわたりまして、信時潔さんの作品をご紹介し、ご一緒に文化の日の喜びを分かち合いたいと思います。はじめに信時さんのご挨拶をご紹介いたしましょう。

信時潔: 全国の皆さん、わけて若いかたがたに今日文化の日のお喜びを申し上げます。このめでたい日の番組に私の曲のいくつかを加えていただきまして、まことに嬉しくありがたく存じております。今日の曲の歌詞は、日本の古典的和歌から一つと、明治大正昭和にわたって日本の詩壇に天才的なお仕事を残されました與謝野晶子さんの詩。やはりその頃詩と短歌に色々、力強く、感激感銘の深い作品を残されました、林古渓先生の詩「阿蘇」と、私の若いお友達で、特異の詩才を示されました清水重道さんの詩、「丹沢」とでございます。

F: 信時潔さんの作品集は日本の国の花、桜の花を歌いました歌曲集から「いにしへの」に始まります。

  <演奏「いにしへの」>

M: 昭和の初め、信時さんの教えを受けたあるピアニストのアルバムに、当時東京音楽学校の生徒から成るオーケストラ全員の写真がありました。写真の真ん中にはチェロをかかえた信時さんが見え、それはいがぐり頭でした。当時洋行帰りの若い音楽家で、いがぐり頭は信時さんだけではなかったでしょうか。関東大震災の後、当時は住む人とてほとんどなかった国分寺の在に居を移された信時さんは、武蔵野の林をわけて汽車で二時間の道のりを上野まで通ったといいます。信時先生の授業は常に情熱に溢れた名講義だったと、そのピアニストは言います。ただし、時々はいがぐり頭をかくことに辟易しなければならなかったこと、また先生のお近くに寄ると汽車の匂いがしたこと、40年に近い昔を懐かしむのです。

F: 今もなお千古不滅の煙を吐きつづける山、雄大な阿蘇の山を歌いました林古渓作詩「阿蘇」は信時さんの作風を最も簡明に表した曲でございましょうか。

  <演奏「阿蘇」>

M: 信時さんの雄渾な作風は、私たちがこの国に寄せる愛情にも似ています。信時さんの歌曲集に小曲五章があります。女流詩人與謝野晶子の詩によるものです。晶子の詩の中に光る真実は、ここに歌となって昇華しました。

F: いづくにか、うら淋し、薔薇の花、我手の花、子供の踊。この五曲から成る歌曲集は、またなんと優美な旋律の集まりでございましょう。その中でも桃や桜の花咲く庭にたわむれる、幼きものたちの姿を讃えた「子供の踊」、花に托して純潔な心を歌った「我手の花」は、多くの少女たちにとって、いつまでも口元から離れぬ調べ達です。

  <演奏「子供の踊」>

M: おおらかに日本人の魂を歌う歌。私たちが信時さんの作品に接して先ず思うことはこの一言に尽きます。ベルリンに留学し、ゲオルグ・シューマン教授の元に厳格なドイツ和声を学ばれた信時さん。東京音楽学校の教授として教壇に立つかたわら、救世軍の伝道者として街に立ち、基督の教えを説かれた(※注1)信時さん。その信時さんの作品は一点の揺るぎもない厳格な和声の上に古い歴史に培われた日本人の心が淀みなく拡がって行きます。日本に音楽教育を創設した伊澤修二、小山作之助らの優れた薫陶を受けた感動が魂の主流となっているためでありましょうか。大正十三年、母校の教授に迎えられた年(※注2)、若い詩人清水重道の詩によって作った8曲からなる歌曲集「沙羅」が発表されました。この歌曲集こそ大正時代(※注3)の日本に生まれた最もすぐれた芸術歌曲集であり、年とともにその美しさは磨かれています。胸を打つ魅力に溢れた歌曲集「沙羅」から、第一曲「丹沢」をお聴きいただきましょう。

  <演奏「丹沢」>

M: 私たちは本当はまだまだたくさん信時さんのお作りになった歌を知っています。知っているばかりではありません。小学校に入ったばかりの頃から、みんな歌っています。私たちはまた、信時さんがお作りになった「海ゆかば」の響きを耳の底に覚えています。この歌がたまたま戦争の悪夢に結びついて記憶に残らねばならなかった事は、私たちの不幸でした。しかし矢張りその頃にお作りになったもう一つの歌に接する時、私たちは信時さんがどんなに深い嘆きをこらえながら、あの苦難の時代を生きたかを垣間見ることが出来る思いがします。

F: おかあさんおかあさんと繰り返し呼び続けながら大陸に若い命を失った一人の将校がいました。その将校と、彼の愛していた母親の嘆きとに捧げられました一つの詩は信時さんの心を激しくゆすぶりました。

  <ピアノ演奏及び朗読「やすくにの」>

M: 時はうつろい、この国の姿も大きく変わりました。しかし変わらぬ真実が私たちを支えています。その昔、教え子の一人だった木下保さんも、もう還暦のお祝いをお迎えになりましたが、そのお祝いに歌われた歌は、信時さんが万葉集の古歌によって作られた歌でした。万葉の昔に戻ること、それはかつてヨーロッパがギリシャの昔に還れと呼びかけあってルネサンスの耀かしい文化を築いたように、私たち日本人に本当のたくましさと勇気を与えることになりましょう。はるかに俗人を超えて今日もまた、ひたむきに音楽の道を歩み続ける信時さんの姿は、いにしえの野に咲く万葉人のそのままと申せましょうか。

  <演奏「やまとには」>

信時潔: ここで皆様に一つお願い申し上げたいことは、明治以来、国定その他の形での小学唱歌、中学唱歌が数々ございますが、それらの作詞者、作曲者のお名前は当時の事情で公表されてないものもたくさんございますが、いずれも我国の音楽界の大先輩たる伊澤修二先生、小山作之助先生、島崎赤太郎先生、岡野貞一先生、そのほかの方々の心魂を打ち込まれたものでございまして、形はたとえ小さくとも、我国の青少年の情操を養うのに大きな力となって来たかと思います。どうかそのことをお考えになりまして、これらの唱歌を大事に取り扱って下さるよう、年寄りの一人としてお願い申し上げます。なお、近頃では学校を始め、いろんな場所で歌を歌うことが増えてまいりましたが、歌っていうものは特別の人たちが歌うのを聴くばかりでなく、大勢で、誰も彼もが、上手でも下手でも、一緒に歌うことが音楽っていう共有の宝を生かし、その本来の使命を発揮するために最も大切なことと存じます。いかがでしょう、全国どこでも、もっと盛んに歌声を上げようではありませんか。ではみなさん、お元気で。

M: 文化の日特別番組、信時潔さんの作品を集めて。演奏は、独唱及び合唱:東京プロムジカ・アンティカ。合唱:日本女子大学合唱団、慶應義塾ワグネルソサイエティ男声合唱団、ピアノ:辛島輝治、以上の皆さんでした。

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(※注1)「伝道者」「基督の教えを」という点については、噂話的に拡がっているが、どの程度のことだったのか確証はなく、今後更なる検証が必要。
(※注2)母校の教授となったのは大正12年。「沙羅」が作曲されたのは、昭和11年頃。詳しくは「SP音源復刻盤 信時潔作品集成」解説書参照。
(※注3)歌曲集「沙羅」は大正時代にはまだ作曲されていない。同上書参照。